日々是修行

この数日、佐々木閑氏の「日々是修行」を何度も読み返しております。

仏教、それもお釈迦様の説いた本当におおもとの仏教。よく小乗仏教とも言いますが、その概要をわかりやすい言葉で解説したもので、日常のさまざまな場面を例に取り上げて、仏教的生き方?を解説しています。

とっても面白い。

実は子供のころから仏教は身近でした。いいえ、仏教というよりは家族が・・・・宗の信者だったので、仏壇にお供えをし、手を合わせ、お経を唱えるのが日課でした。物心つくころから。そういった一連の作法を何も知識がない中で、行っていたんです。
普通はそういった中で育つと、その宗教(宗派)の様々な作法が当たり前のように思われてくるものですが、私は違いました。
大きくなるにしたがって、手を合わせたりお供えをしたりはしていましたが、心の中では大きな違和感が出てきていました。

それはすごく単純なことでした。我が家で時々開かれる「座談会」なる集まりがありました。当然夜に行われ、仏壇に向かって20人くらいの「他人」がいっせいにお経を唱えるんです。別にそれ自体は普通のことだったので、なんでもなかったのですが、そのときにテレビを見ることができなかったんですねぇ。それがすごくいやだったんです。それにそこにいていたちょっと年齢が上の子にいじめられていたことも大きかったんでしょうね。

そのせいか、中学くらいになってもお経を覚えることもできず、いまだに諳んじることはできません。

いつしか年月が過ぎ、梅原猛氏の「地獄の思想」を読みました。それをきっかけに「仏教の思想」などを読むうちに改めて、仏教に興味が出てきたんです。

じいさんは、「信心する」とよく言っていました。なんだ信心て?
「錦糸町の駅で電車を待っているだろう?そのとき向こうから中野行きの電車が来たとするね。それが中野行きだって思って乗ることが信心なんだよ」と言ったのを今でもはっきりと覚えています。

佐々木氏の文章にこんなくだりがあります。
しかしそもそも釈迦の仏教は、信仰で成り立つ宗教ではない。仏教でも「信じなさい」とは言うが、それは、「釈迦の説いた道が、自分を向上させることに役立つ」という事実を「信頼せよ」という意味である。仏教の「信」とは、信仰ではなく信頼なのだ。この違いは大きい。


これってじいさんの言っていたこととおんなじジャン!!

昔、親鸞さんが師の法然先生についていくとき、「もしそれで地獄に落ちても本望だ」みたいなことを言ったそうですが、これも師を信頼した言葉なんでしょうね。

さてさて、私は何を信頼しているんでしょう。

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